会社の山荘のベランダに立つと、目の前に御嶽がせまる。
が、その行く手を山荘の敷地の樹々がさえぎる。あえてその木立を断たなかったオーナーに、やさしさをみる。
でっかい岩風呂に浸かると、千年も万年も寿命がのびる思いがする。
晩秋の小春日和には岩風呂の窓を開け放ち、ぬけゆく青空に、私は遊糸(ゆうし)の姿を想う。
孵化をした子蜘蛛が、まどい期を解くためにお腹から糸をながく出しながら、晩秋の風に乗って親から千々に別れゆく風光を、中国では遊糸という、うつくしい文字にかえた。
まどい期とは、親離れ子離れのころあいを迷う状態をいう。蜘蛛たちだけではない、あらゆるイキモノの巣立ちには宿命の別離がある。かれらは遊糸のあと、ふたたび頼り合うこともめぐり逢うこともない。
進化の知恵熱は、人類のぬくもりを奪い去ったか、まどい期の解きかたをどこかに置き忘れてきたヒトの親と子は、冷めた糸を心に絡ませ、傷つけあう、殺しあう。
「有名になれるなら人殺しだってかまわない」
テレビのなかで童顔の邪鬼がほくそ笑んだ…。
ここにきて進化と退化の反義語(アントニム)は、同義語(シノニム)であったことに気づかされもする。
神さまは私たちを、どうなさろうとしているのか。私が神を信じるようになるには、まだまだ修行がいるが、こんなふうに岩風呂に浸かりながら仰ぎ見る宙(そら)に神の姿を探そうとするひとときが、この上なく好きである。
ずいぶん生きてきたなあと思う。
飛騨のながい冬が終わり、もうひとつの春がやってきた。
まもなく山荘開き、今年もいちばん乗りだ。
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