私の宝物は一枚のハガキである。
少年時代に手塚治虫からもらったのだ。
当時すでに超売れっ子だった手塚が、他の漫画家に代筆させたことに注文をつけた私への返信だった。達筆な手塚の自筆で、鄭重な謝罪文が書かれていた。
幼い私の若気の至りに、それでも手塚は謙遜に応対してくれた。やはり偉才は細部にも手がとどくのだ。
そんな手塚のライフワークである『火の鳥』に、ロボットが自殺するシーンがある。
人間の心を持ってしまったロボットが、人間に失望し集団自殺をする。火の鳥シリーズで私がもっとも衝撃を受けたシーンでもある。
AIBOに始まったロボットが人型になり、そして人を仰天せしめるパフォーマンスを見せ、さらに進化をつづけている。その人型ロボットの研究は日本が欧米を断然リードしている。
この背景にはキリスト教では人間の創造は神の領域とされ、たとえロボットであっても人型ロボットを造ることへの強い抵抗があるのだ。
かつてヒト型ロボットを開発するさい、ローマ法王であった故ヨハネパウロ二世に、日本の企業がその是非についてお伺いをたてたという。それにたいし法王は、神が創られた人間がロボットを造っても、それは人間を創った神のお考えの範囲だから神への冒涜にはならないと仰った。
それはさておき、はたしてロボットは人とおなじ心を持つ日が来るのだろうか。
こたえはNO、脳科学者の茂木健一郎氏はいう。この人間の脳のフクザツな感情の揺れを科学の技術で創ることは不可能であると。
私もそう考える。人の心は多くの悪意に支えられた善意が絶妙なバランスでもって成り立っている。フクザツな感情と絶妙なバランスという紙一重のあわいを思考が行ったり来たりしながら、瞬時に判断をくだし行動をする。そんな脳を人工的に創ることは、この先いくら科学が進化してもできっこないというのが私の考えだが、その先にはそれこそが神の領域であるという思いがある。
今年は手塚治虫生誕80周年にあたる。
手塚が亡くなった時代には、地球温暖化問題がこれほどまでに深刻になるとは夢にも思わなかった。それにあの時代の人々には、今以上にやさしさと思いやりがあった。
いま人類は征服をしたはずの地球によって自身が淘汰されようとし、悠久の時間の流れのなかで人類が培った精神(こころ)によって、自身を傷つけはじめた。
いまでも克明に想い出されることが、私にある。
あれは平成元年2月9日の昼のことだった。
私は勤め先のある名古屋市内を歩いていた。
そのとき来名していないはずの手塚に、名古屋の丸善でサインをもらっている私自身の姿が脳裡に映し出された。
驚くなかれ、その時刻はまさしく手塚が亡くなった時刻であったのだ。
それを偶然の一致と片づけてしまえばそれまでだ。しかし私はそうは思わない。
世界には人間の考えの及ばない不思議な現象が充ち満ちている。
ある先哲はこんな言葉を遺している。
【宇宙の限界は、そっくりそのまま人間の知性の限界をしめす】
それは科学を万能とする人間の傲慢さへの警告と受け止めたい。
生誕80年を迎え、私はいま手塚治虫の十数巻に及ぶ大長編『火の鳥』の第1編を読み直したところである。
このたった1冊の本が、全宇宙をも包み込む精神性の深さと拡がりと優しさを持つこと、そしてなによりも人間はどう生きるべきかを示唆していることをも知った。
かつて『パンセ』でパスカルが説いた。
「空間によって宇宙は私を包み、思考によって私は宇宙を包む」
手塚治虫の『一枚のハガキ』が『火の鳥』という一冊の本へと私を導き、限りのない世界へ、そして宇宙へといざなってくれる。
玉石混交の情報が氾濫する今日に、手元に置いて繰りかえして読むバイブルとする一冊ほど大切なものはない。
一書を恐れよという箴言があるが、まさに手塚治虫の『火の鳥』は、一書畏るべきである。
-K-