悪友に誘われ日ごろのストレスを解消すべく温泉へ行く計画が浮上した。
未だ決定でもないのに詳しい仲間たちが場所選定で意見を交わす。物静かな自分だけその話についていけない。
「やっぱり温泉は熱海やろー」真顔で熱弁する丹生川町好きのU地区在住者。それを無言で何度もうなずき後押しする自営業を継ぐ気のない親不孝週末限定名古屋市民。
「山中なら行ったことあるで目を瞑っても案内するでー」「石和も熱いなー」業務中見たことのない笑みで語る温泉好きS町内自称青年部長。こちらも温泉好きの会議に参加せず無口で未知なる野望を持つ大器晩成型M川沿いT町民。
意見がバラバラで毎度の企画倒れになりそう…心配である。
くだらない話でも意見が飛び交うのは成長である。皆好き勝手意見を述べる中でも、参加者が無意識の中で、多少無理があっても意味がずれていても多数意見だけでなく少数意見を尊重する姿は民主主義そのものだ。今回のテーマでも最終的には多数決になるであろうが、なぜ多数意見だけでなく少数意見も大事にするのだろう?
まず思うに人は間違える動物であり、創造する動物である。個々能力に限界があり、それを超えたとき個性が現れ間違えたり創造したりする。→創造ゆえの選定間違い(とならないように吟味しなければならない)。
もう1つ、多数意見や年功者・経験者(漢文で言う先生?)が絶対正しいとは限らない。とはいえ大体の場合、これらを主張する多数意見のほうが正しいのだが、その保証は全くない。すべてとは言わないが、立場に関係なくとりあえず意見もないし、多数意見に右倣えしておけば無難だろうという「寄らば大樹の陰」が多数決になることもある。だからふたを開けると「やっぱりあっちの温泉がよかったんやないか?」という後悔交じりの少数意見に魅せられ輝きが復活する。ずっと少数意見を説き続ける人の存在は周りにすると大変だが貴重である。またたくさん意の異なる意見を確保することは、多数者にとっても有益だと思う。これをうまく使うことが全体の成長につながる。そしてこのような意見を交わす環境を作り、安心して少数意見が述べられる人間関係が言論・表現の自由である。
意見を交わしても頑なに持論を唱える人もいる。賛同し多数意見から少数意見に転じる人もいる。いろいろいるから成長する。
それに耳を傾けず全く相手にしない言論の自由・表現の自由・思想の自由が守られない社会…閉じてしまう個人の出現。
何においても言ったことを各々が尊重する社会がルールでは?とくだらない悪友の温泉会議で堅く考えてしまう当方でした。
KK