まだ明けやらぬ朝の道を、故郷に向かって車を走らせていると、カーラジオから懐かしい歌が流れてきた。歌は子供のころの光景に連れ戻してゆき、いくつかの幼い自分の姿が頭のなかを走馬燈のよう駆けてゆく。
人間とは想い出に生きるいきものであり、人生は懐かしさを愉しむためにあるという人がいたが、私も幼き日の残像に生かされているふしがある。
ここに老いた私がいる。いつの間に……などといまさら云うまい、人生という道も、いま走っているこの道とおなじで、はっきりと歩いてきた道だから。
「そろそろ整理していた方がいいわよ、あなたの部屋、遺された人が困るから……」
このごろの家内の口癖だ。
かつて乱雑な机の上は頭のなかが整理されている証拠、などと嘘ぶいていたときが私にはあった。それがどうしたものか、その乱雑さが気になってしかたのない自分がいる。
もうかなりご高齢の、いつ死んでもおかしくない人たちの書斎をテレビや雑誌で観る機会がある。私よりも一回りも、二回りも年配のその御仁は、まさか己は死なない身体だとは思わないだろうが、死ぬとしたらずっと先のことだろうとお考えだろう、山のように積み上げられた本と資料のあいだにできたわずかな空間に埋もれるようにして、満面に笑みをうかべておられる。
もしここでだれかが、その部屋を整然と整理整頓しようものなら、おそらく即死されるだろう。いや乱雑さを好む体質、そういう元気こそが、書斎の整理などという非生産的な考えを排除しているにちがいない。
それがいいのか、わるいのかはわからぬが、それも生き方のひとつだ。
年々歳々天に逝かれる元同級生や元同僚を数えつつ、自分だっていつ死んでもおかしくはない歳であることを知らされもする。
さきの晩、家内がムカデに首を噛まれた。
外からなにかに掴まってか、それとも迷い込んでか、そのムカデは家内の上着にまだ掴まっていた。私にとっては見るのもそら怖ろしいムカデである。家内にはたき落とされ絨毯の下に逃げ込んだムカデを、家内はスリッパで踏みつぶした。
日ごろ畑仕事で害虫駆除になれているとはいえ、たとえ天地がひっくり返ろうとも、私にはとてもまねのできることではない。躊躇のないその動作は、残酷さは女性の天性かとも思えてくる。そばで愛犬がなにくわぬ顔で寝そべっていた。その犬に、私はいたって甘い。いや、あえて甘くしている。
宇宙の悠久の時間の流れは、あまたの生命体をはぐくんだ。ムカデもしかり、犬もしかり、人に至っては奇跡の産物なのだろう。
私の小学生から中学生にかけてのいちばんの恐怖は、おのれのイノチが永遠という時間に呑み込まれてしまうという、自分の絶対無というものがとてつもなく怖かった。
しかし老いは私に、これまでとはちがう恐怖を植えつけていた。
いまの自分の意識は、死後またべつの生命体の意識として存続してもおかしくはないという恐怖である。とするなら、私は踏みつぶされたムカデでもあり、私のそばでなにくわぬ顔で寝そべっている犬でもあり、今朝食べた魚であったとしてもおかしくはないのだ。私が愛犬にいたって甘い由来は、犬に自分自身を投影していることに基(もとい)がある。
この世に生をうけたイキモノの意識の不条理、不可思議、そしてなによりも人間に生という雀躍と死という冷血とを、やさしさのオブラートで包みこみ、知らぬ顔で差し出すサムシング・グレートを許し難い、などという不謹慎な気持ちが頭を持ちあげてくるなかで、いや、そもそも大宇宙のシステムを人間の脳で理解しようとすること自体、尊大なのだ、だいいち先哲に【人間の限界はそっくりそのまま人間の知性の限界をしめす】という言葉があったではないか、めでたい正月に、そんなややこしいことを考えるのはよそうという考えも頭を持ち上げてくる。
故郷に向かう道も白みかけてきた。
見るに、前方の白銀の世界を朝焼けが赤く染めはじめていた。
なんという眺めだ。
これこそが恩寵なのだ。
そう、生きるということに理屈はなしだ。
歳とともにちがいを見せてくれる人生という大宇宙の景色に騙されつつ、しばらくは歩いていっても損はないだろう。