《上海にて》
上海工場に中国奥地に棲む青年ふたりを採用した。
この世に贅沢というものがあるということをしらぬまま育ったかのような身なりにある。
社宅に案内をした。
二人は住むには狭い部屋に、横になると足がはみ出してしまいそうな、ちいさくて粗末な簡易ベッドを椅子がわりにして二人はそれぞれ坐った。
ふと彼らの足元をみるに、田舎からぶら下げてきた荷物の包みから、汚れた布団と擦り切れたムシロがのぞいていた。
これからはじまろうとする新しい暮らしは、それでも彼等にとっては贅沢なのだろう。
それほど広くない部屋に二人して、新しい街に新しいなにかを希うように、窓に向かう彼らの瞳はキラキラと輝いていた。
《東京にて》
けさ出がけに何を着ようかと迷った。
気づくとつい五年ほど前に、捨ててしまおうかと思っていた粗末な背広とコートに手がのびていた。
よかったとおもった。
出張の仕事をおえ、ホテルへ向かうため電車を乗り換え、目的の駅に着き、改札口を出たあたりにホームレスが立っていた。男は寒そうに身体を揺すっていた。エスカレータを乗り継いで上り、私はコンビニで夕食を二個買った。
一個は男の夕食だ。
エスカレータをふたたび下がり、改札口に戻ってみると男はゴミ箱をあさっていた。
「おじさん」私の呼びかけに、
「ハイ」と緊張した返事が返ってきた。きっと駅員にでも叱られたと勘違いをしたのだろう。
「これ食べて」
「スミマセン」
男から足早に立ち去りながら、こういうのを、偽善というのだろうと私は思っていた。
友だちからこうも言われた「相手の立場を考えたら、かえってよくないよね」
「夢供養」という、さだまさしのベストともいえる、ある種言葉の宝石箱のようなアルバムのなかの「療養所(サナトリウム)」という曲に、
【人を哀れみや同情で語れば、それは嘘になる】
というフレーズがある。
弱者といわれる立場の人々に出逢ったとき、この言葉が私の胸のずっと奥深いところで、疼く。
わたしたちは弱者と呼ばれる人たちによって、救われ、生かされてもいるのだ。
しかし豊かさは力ではない。むしろ滅びの前兆であるのかも。
世界では毎日2万人の子らが餓死しているというのに、東京のネズミはまるまると肥えていく。崇高であるはずの精神を持たされている人は、この悲しい現実に無関心でいられる精神をもあわせ持つ。
あくる朝、そこに男の姿はなかった。
ホームレスになったのは、男に一方的な落ち度があってのことかも知れない。いやたとえそうであったとしても、こういう出会いは──辛い。
しあわせになってほしい
男をかつての自身の姿に投影しながら、気休めでしかないその言葉に私は、つよい祈りをこめていた。