「××さんを見たわ。わたしが××さんでないかジッと見つめていたら、わたしに微笑み返しをしてくれたのよ。ぜったいに××さんだったよ」
妻が私にそう言う。かつて芸能界で大活躍をした××さんが、芸能界を引退して私たちの近くに住んでいるという噂をききつけた妻が、××さんを見てみたいと日ごろ言っていた。超能力とはいえまいが、妻の念力が実現をしたのだった。
超能力といえば、わが家のワンコは凄い。
お座敷犬として部屋の中で、ひねもすうつらうつらしてはいるものの、全神経を家人に集中させている。退屈でしかたがないから、どこか散歩に行きたくてうずうずしているのだ。
たとえば靴下を履こうものなら、お出かけモードを察知し、さあ大変である。
背後でうつらうつらしているワンコに見えぬように、音を立てずに腕時計を手にはめただけでも、さあ連れて行けとばかりさっと立ち上がり駆け寄ってくるから驚きである。
それは微かな気配、微かな物音から察知するのであろうが、とどのつまりは「精神の集中」に由来するのであろう。
自分には見えないものが、人には見えるということや、自分には感じられないなにかが、人には感じられるということは、こういうことではないか。
つまり神経を集中させて、ものごとに向かえば、見えなかったことも感じなかったことも見えたり感じたりするのでないか……と、思いたくもなる。
数年前の夏、内モンゴルを旅した。
見わたすかぎりの大草原は──しかし褐色の絨毯を敷きつめたような荒れ地が広がるばかり。温暖化という進化の副産物は、ここでも容赦なく後進の民にツケを回しはじめている。それでもモンゴルの民は、われわれを笑顔で迎えてくれた。
話はその前夜のことだ。
北京空港を夜十時過ぎのフライトとなった機中で、内モンゴルの都市フフホトまでの距離を、おおよそ半分ほど飛んだあたりだろうか、窓側の席で私は真っ暗な夜空を眺めていた。
日ごろ霊感の微塵も感じられない私はこれまで一度なりとも、超常現象に出会ったことがなかったけれど、できるならUFOぐらいは見たいものだと日ごろから思っていた私は、もしUFOというもの物体が飛ぶとしたら、こんな場所かなと考えていた。
そのときUFOは私にその姿をはっきりと、長時間にわたって見せてくれた。
ありえない光球が、ありえない速度と動きで、私の乗る飛行機の横に現れたのだ。
機内を見回したが、ほとんどの人は寝ており、UFOに気づいた人はいなかったようだ。
私ひとりが目撃をしたのである。
人に話をすれば、なにかと見まちがえたのだろうと言われるだろう。
けれどその「なにか」とは、いったいなにを指すのだろう。
偶然とか奇蹟とかを考えるとき、その背景には大いなる助走があるような気がしてならない。
妻が××さんを見たのも、私がUFOを目撃したのも、両者がたまたま「そこにいた」という偶然でしかないのだが、見る側に見たいという、うごかし難い事実があったからだろう。話は飛ぶが、神がいるいないという話は、これと似ているのだろうか。そういう意味で、神さまはどこにでもいるのかもしれない。
UFOの奇跡を見た翌日、内モンゴルの平原を一時間あまり、私の乗る馬に二人乗りをして、モンゴルの歌を朗々とうたいつづけてくれた青年──あれは少年から青年のあわいに漂う歳であろうか、大平原の果てに吸いこまれてゆく奇跡ような歌声は、深く私の精神に刻みこまれていった。