高山祭

高山祭とは



美しく色づく山並みを背景に、情趣あふれる街を練り歩く屋台…。
この荘厳華麗、絢爛豪華の中に幽玄と哀愁を漂わせる芸術品によって、高山祭は、京都の祇園祭・秩父の夜祭とともに「日本三大美祭」のひとつに並び称されてきました。
一般に「高山祭」といわれているのは4月14~15日に済行される日枝神社の例大祭と、10月9~10日に済行される桜山八幡宮の例大祭の総称です。両例大祭は「春の山王祭」「秋の八幡祭」として江戸時代から飛騨の人々の心を支えてきた行事でしたが、昭和27年に国の「重要無形民俗文化財」の指定を受けて以来、屋台(重要有形民族文化財)の美しさやからくり人形の技と共に、「高山祭」として全国に定着していきました。
祭り当日は、古式にのっとった祭事の後、闘鶏楽や一文字笠に裃姿の警固など、氏子が伝統衣装に身を包んで町を巡る大行列や、屋台の曳き揃え(春・12台、秋・11台)、からくり人形奉納(春:三番叟・石橋台・龍神台、秋:布袋台)などが行われ、10数万人もの大勢の観光客で賑わいます。

高山祭の起源と歴史

今でこそ「日本三大美祭」と称され、絢爛豪華な「祭り屋台」が繰り出す「高山祭」ですが、その起源は「元禄5年より40年以前、3年に1度ずつ山王神社の祭礼があった」という古文書が残っていることから、1652年以降の承応年間、金森家4代頼直の時代と考えられています。当時の祭りは、今のような氏子のためのものでなく、領主の祭りであったといわれ、山から里に降りてくる神様をお迎えし、五穀豊穣と家内安全・無病息災等をお願いする神事でした。
また、現在の屋台の原形は天領時代の「正徳・享保年間」に溯るといわれ、当時はまだ単層の車に陣幕を張っただけの質素なものであったようです。
現在の「高山祭」の原形は金森6代統治の間にできあがったようですが、現在の壮大な祭事を彩る豪華絢爛、荘厳華麗な屋台の造りは、金森家治世の頃からの長い伝統の中で、文化の素養と江戸・京都との交流に加え、町衆の経済力や他の組のものより美しくという競争力を支えに、それを実現した大工・塗師・彫刻師など飛騨の匠の技量によって創り上げられたものであるといえます。